『人生問題解決ブログ♪』自力なしで成功する「環境作り」法。by「妊娠虫40歳。」

妊娠虫(バグ)を発生させてからの記録。※誤字脱字すいません、マイク入力でリライトしてません。ニュアンスでお読みください。

ケチな人とは。

ケチな人は、大切なものが何かわかっていません。

なので、目の前に選択肢がある時、ケチって、「大切な幸せになる事」よりも、「金額の安い方」を選びます。

 

目の前に、菓子パンと無添加のパンがあると、必ず100円の糖分と添加物がたくさん入った菓子パンを選びます。

 

またそういう悪いものを食べていると、舌がマヒし、100円の菓子パンが美味しいと思うようになります。

そして、脳に悪影響を与える為に、判断能力がさらに鈍ります。

感情のコントロールができなくなります。

すぐイライラしたり、すぐ被害妄想をしたり、すぐ不安になったりします。

 

ケチというのは、お金の節約でいいのではないかと思いますが、そのケチな行動が果たして自分に与える影響がどれくらいのものか、よく考えた方がいいです。

 

また食べ物ではなく、人に対する態度もケチな人は自己評価を下げます。

ケチなので、自分にとくになることしか考えません。

感謝の気持ちが芽生えません。

 

そうすると、いくら得しても、気持ち的にもっともっと得をしないと気がすまなくなり落ち着かない人間になります。

どんどんものを増やしたり、どんどん感情をばらまいたり、自分が幸せな気持ちで穏やかに満たされることがないのです。

 

いくら得をしてもいくらものを増やしても満たされないので、もっともっともっとと、どんどん加速していきます。

それでも幸せな気持ちで満たさえることなく、一時の満足度で終わります。

 

ケチをやめるというのは、散財しろ、無駄遣いしろ、自分が損をしろというのはではありません。

 

そのケチな行動を選択した時に、「他人を不快にさせる。」「自慢をし続けないと満足できない」「愚痴やクレームをいわないと気がすまない」状態に陥ることは、果たして、幸せで自分が満たされることにつながるのか?ちゃんと考える、周りを見る、視点が合っているか、生活することです。

 

クレームをいうというのは、クレームを言わざる負えない状態=自分の想像を実現できる能力がかけている人、ということになります。

駄々をこねる子供のようです。

 

他人を不快にさせるというのは、客観的に自分をみる能力がない人、ということになります。

 

自慢も度を超えて言い続ける人もまた、言わないと自分が満たされない、他人に自慢することで、自分を認めて欲しい、褒めてほしい欲求がとても強い人間、ということになります。

ようは、他人を褒めることはしないケチな人間だが、自分には褒めて褒めてと欲する人間、といっているようなものです。

 

いらないものはいらないでいいのです。

自分が本当の幸せで満たされる行動ができる人、そんな人に私も常日頃からなりたいと思っています。

 

 

40代でも50代でも若くいるメリット。

たまに、年相応の美しさ、なんていうけれど、年相応ということは、年相応に見えるということだ。

 

年相応って何?

40代や50代らしい美しさなんてほぼお目にかかったことはない。

 

それはおばさんと見られていること。

 

おばさんらしい見た目に何の価値がある???

 

はっきり言って、男性は若い人にしかほぼ興味がない。

 

若く見えるというのは、「繁殖」を象徴する。

子孫繁栄できるように見える見た目だ。

 

男性なら、仕事ができそうな見た目、高収入に見える見た目だ。

 

女性は高収入に見える必要がない。

 

必要なのは、繁殖できる女性に見えるかだ。

 

太らない、余分な肉をつけた体はたるんで、ハリがなく、見えいて気持ち良いものではない。

 

ハリがはるということは、筋肉があり、余分な脂肪がないということだ。

 

体ははっきりいうと、努力でどうにかなる。

食べ物、食べ方、食べる量。

 

筋トレ。ストレッチ。

 

負けるな!自分に。年齢に!

 

年齢が高くなるということは、精神的にも知識的にも高くなっているはずだ。

 

年をとってバカになっていては何のために生きているのかわからない。

 

死ぬときに、1番美しいくらいの意気込みがほしいところだ。

 

40代になったから、50過ぎたから、太るのは仕方ない、と言ってはいけない

 

言うと実現するから。

 

日々のごはん、日々の体の動かし方、日々の姿勢。

 

すべてが、体に現れる。

 

年相応の美しさなんて言葉は好きじゃない。

いくらでも若くいられるのに、努力を怠ってるわけだ。

 

今は整形だってある。

高須クリニックの先生が言ってるではないか。

整形でも、顔を変えるのではなく、顔のメンテナンスをするのがよいと。

 

ハリのある顔、若々しいからだ、声、すべて、他人に癒やしを提供している。

 

だれも年相応の女性をみて癒やされない。

 

自分だってそうだろう。

自分より若いピチピチした人をみれば癒やされるだろう。

自分より年老いた女性をみて癒やされる人はいない。

 

これは他人より美人になるというのではない。

 

自分の若さを努力でキープするという努力をすることは、みんなの癒やしに貢献するということだ。

 

なぜ服を着るのか?

なぜだらしない格好で外に出ないのか?

それは他人によく見てもらいたいという心遣いだ。

若さも同じ。

若さをキープするのは、他人への心遣いだ。

無い物ねだりをしない習慣を身に着けよう。

悲しくなった時、不安になったとき、絶望の時、何もかもが嫌になったとき、死んでしまいたいと思ったとき、、、。

ふとした夜の虚しい時間にやってくる、マイナス思考な時。

 

それは、「無い物ねだりをしている子供」の心理に近い状態になっている。

 

あれがない、これがないと騒いでいるのだ。

感謝を忘れて。

不平不安を積み重ねては、どんどん自分で落ち込んでいく。

 

そういう状態であることを、自分がすぐに気づくことが大切だ。

 

なにかモヤモヤする。

なにかうまく行かない。

そんな時は、だいたい無い物ねだりをしている。

 

でも、そろそろやめよう、無い物ねだりをするのは。

 

無い物ねだりが習慣になると、努力しなくなる。

時間を無駄に使うのがくせになる。

人生は有限だというのに。

 

無い物ねだりが癖に、習慣になると、

「無いから」自分がだめなのだと、自分以外のもののせいにして、努力しなくなるのだ。学ばなくなるのだ。

 

ただひたすら、相手のせいにし、現実をみなくなる。

現実に感謝しなくなるのだ。

 

それはとても、時間を無駄にすることになる。

 

現実では、本当はたくさんのものや愛をもらっていて、助けられて、恵まれているのに。

 

あの人は自分よりいいものを貰っていると、勝手に自分を悲劇のヒロインにしてみたりすることになんの意味があるのだろうか。

 

愚痴をいう時間があるなら、今というもう一生やってくることのない大切な時間を、「感謝の気持ち」で満たし、自分が今出来る事をやったほうがどれだけ素晴らしいか。

 

あれがない、これがないと考え続けるより、あれもある、これもある、なんて幸せなんだろうと

「感謝の心で自分を満たす」癖をつけたほうが、人生は幸福になりやすい。

 

練習してみよう。

今日声をかけてくれた知り合いに感謝。いつも一緒に生活してくれる人に感謝。仕事と予定をくれる上司や会社に感謝。美味しいものが作れる自分に感謝。美味しいものを作る材料を作ってくれる人に感謝。

 

もし、自分よりいいものを持ってそうな人がいて、いつも劣等感を感じているなら、あの人はいいなー優秀でいいなーと考えるのではなく、「あの人がいてくれたおかげで、あの人に近づこうとモチベーションをくれたあの人に感謝」と思ってみよう。

 

そうしたら、自分に持ってないものを持ってる人に出会えば出会うほど、劣等感を抱くのではなく、モチベーションを自分に与えてくれる、感謝の対象がどんどん増えて幸せになるから。

 

もし、嫌だなと思う人がいたならば、もちろんその人から離れるのもいいけれど、職場などで離れることができないのなら、「苦手な人でも、この世に全て悪い人なんていない。なぜ苦手だと思うか?それは自分にとって不都合だからだ。自分にとって不都合な人間を悪だと安易に考えようとしていたことに気づかせてくれた苦手な人に感謝します。」と思おう。

 

 

それは本当のことだから。

決して100%全て悪い人なんていない、ただその人の自分にとって苦手な部分を見ているだけに過ぎない。

それはそれで、苦手な部分と同じくらい、いい面も必ずあるのが人間なのだ。

 

全て、自分にとって、都合のいい人間ばかりではない。もちろん自分にとって都合がよければ、楽に生きられるから人間は、「自分とって都合のいい人間を、良い人間だとレッテルを貼る」ようには出来ているけれど。

 

人間なんて小さな生き物で、ちょっと自分の思い通りにならなかっただけで、気分を害し、子供じみた愚痴を言ったりする。

 

もう子供じゃないなら、自分の気持ちは自分でコントロールできるようにしよう。

 

いつまでも子供でいてはいけない。

いつまでも無い物ねだりはよくない。

 

それは時間の無駄だから。

 

もし「すべてのものに感謝できるようになれば」その人は、どんな境遇に出会っても、どんな人間に出会っても、何が起こっても、幸せでいられるだろう。

 

実を言うと、幸福感とは、とてもシンプルな考えで出来上がっているのだ。

 

 

 

指輪が抜けなくなった時の対処法!

焦りますよね!

抜けない!やばい!このまま一生ぬけないの?!と

お困りのあなたへ。

 

①まず、入ったものは、必ず抜ける!と信じよう!

疑ってはだめだ。必ず抜けるのだ!なぜなら、入ったのだから!

 

②用意するものは、ティッシュと、ヌルヌル気味の保湿剤、ハンドクリームとかなんでもいい。

その保湿剤を抜けない関節などにベタッと塗る。

 

ティッシュで滑らないようにしっかり指輪を持つ。

 

④回しながら、左右くるくるでも、何でもいいから、ここは「痛くても!」しっかり指輪を持ち、回しながら、痛くても、回しながら思いっきり引っ張り続ける!回しながらね!

 

⑤痛いけど、勢いが大切!途中保湿剤が乾いていたら塗り直し、もう一度、気を取り直して、今度こそしっかりティッシュで指輪を掴んで、回しながら、引っ張る!

痛くても、ぐっと回しながら引っ張ると、「あ!ぬけそうな感じ」の場所まで少し動けば、あとは抜ける!!

 

痛いけど、瞬間我慢!!

 

あまり長い時間チンタラやってると指の血管しまって青くなるので、勢いと短期決戦でがんばろう!

 

と、これは実際に私がやったことです。

 

指があとで痛くなっても、自己責任でおねがいします。

人生をらくに生きる簡単な方法とは?

それは、不安や恐れ、保身よりも、「感謝」を優先できる人間になることだ。

 

日常のちょっとした、些細なことに臆病になったりする。

今日はじめて会う人、今日はじめてやるプロジェクト、今日はじめてする勉強。

 

人間ははじめての「未知なるもの」に対して恐怖を感じ、考えれば考えるほど、不安をつのらせ、思考は狭くなり、さらに不安にあおられるようになる。

 

そうすると自分の小さな世界で窮屈になって周りが見えなくなる。

 

孤独だし、楽しくないし、ただひたすらその時が来るのを耐えて待つことになる。

 

それでは、生きにくい。

 

だって、生きてるかぎり、明日のことなんて誰にもわからないから。

 

だったらはじめてのこと、これから起こること、これから出会う人、そのことに、「感謝の気持ちをささげる」ことのほうがずっといい。

 

今日こんな新しいことに出会えて私は幸せで感謝しますと。

今まで、これから訪れる新しいことに出会う人が、悪いことになりませんように、と願うよりずっと気分がいい。

 

そしてその時が来たとき、感謝の気持ちでいられたから、笑顔で参加できる。

 

それくらい感謝の気持ちを持てば、習慣化されれば、人生楽勝で、幸せに生きられる。

 

なんでも、気持ち次第、考え方次第で、人生は、一瞬に輝く!

後悔なく生きるためには?

そのためには、周りの人間の言うことを、気にしないことだ。

周りの人の意見は意見として、自分とは別のものだと、切り離すことが必要だ。

 

人間は自分の都合のよいように解釈し、それが正しいと自分に認めされる為に、他人も同じ考えを持つよう行動する。

 

でもその意見が、あなたにとって、幸せをもたらすものとは限らない。

 

学校や、会社、親、友達、しらない他人、テレビ、ネット。

 

いろんな人が、いろんな立場でものを言う。

 

でもそれはひとつの意見だ。

 

まずは、自分がどうしたいか?

それは遠い夢の話ではなく、今、今日の生活の時間の話だ。

 

例えば電車にのって過ごす時間、会社のちょっとしたブレークタイム、仕事中や勉強中の時間、家に帰ってからの時間。

 

些細な時間を、もし、気持ちよく、感謝の気持ちをもって、過ごすことができたらな、

 

それは全ての時間を幸福に包まれて、過ごせるということだ。

 

誰があなたに、あなたに、我慢して、苦しんで、苦労して、嫌な気持ちで生きろと行ったのだろう?そう、望んでいると思うのだろう?

 

たしかに、幸せな人をみると、不幸な人、マイナス思考な人は、その人を妬む。

あの人は私より幸せそうだ、きっとズルをしているに違いない、あの人は特別に恵まれているのだ、なんてズルイのだろうと。

 

それはあまりにも悲しい生き方である。

 

自分の不幸を、周りのせいにしないと生きられない人は多い。

 

何か自分以外のものを、悪者にしないと生きられないのだ。

 

もちろん、誰しも、心弱く、卑屈になり、他人と比べ、あの人はズルイと思ってしまう、そうすると、周りのせいにしないと、心の中で文句をいっていないと、気が収まらないのもわかる。

 

しかし、文句をいうこと、周りのせいにすることが癖になると、いっこうにあなたは幸福を感じることができない。

 

あなたは何のために生まれてきたのだろう?

苦労して我慢して、卑屈になって、いつも自分の人生を悲観するために生まれてきたのだろうか???

 

そのために生まれてきたと思うならそれでいいと思うけれど、

いや自分はもっと幸せで楽しく生きるために生まれてきたならば、

 

なるべく文句をいったり、周りや人のせいにする癖をやめたほうがいい。

 

人のせいにしそうになったら、周りに文句をいいたくなったら、その人やまわりに

「ありがとう、感謝します。」と心の中でつぶやいてほしい。

 

なぜなら、その周りの人がいたおかげで、今自分が卑屈になって、マイナス思考になって、不幸になろうとしてことに、気づかせてくれたからだ。

 

周りがいてくれたから、あなたは生きられている。

あなたのすべての生活にいろんな人の助けを得て生きているはずだ。

 

あなたが飲む水、買うコンビニのご飯、みるニュース、話せる友達、いろんな体験ができる仕事、、

 

それらはあなたがお金を払っているかもしれないが、自分以外の誰かのおかげで、得ているのだ。

 

極限までいけば、吸う空気でさえ、自分で作っているわけではない、緑や地球やいろいろな自然が生み出してくれている。

 

小さな感謝に気づくと、すべてのものが幸福に見えてくる。

 

きな臭い、昔からいわれている、感謝という心、嫌だと思うかもしれないけれど、

人間は、大切なものを失った時、はじめて本当の意味で、「感謝の心」に気づくのかもしれない。

 

恵まれて生きている日本人には、一番必要な、幸せになれる気持ちである。

自分を大切にできる人はスルー力が高い。

どんなにがんばっても、あなたのまわりにいる人が、がんばらなければ、前に進めない時があります。

 

でも人間とはよほどのことがない限り、変わりません。

また人にはそれぞれ能力が違います。

 

あなたが簡単にできても、あなたのまわりにいる人にとっては、大変なことかもしれません。

 

でもそんな時、あなたは「あなたは自分を大切にするために、何を優先するのか?」きちんと考えていれば、うまく行くかもしれません。

 

あなたがもし集中して仕事をしていたければ、一言、「ちょっと集中してくる。」でもいいです、場所を移動しましょう。

 

もしあなたが、気持ちいい気分でいるのに、イライラしてる人が近くにいるならば、スルーできるなら、ほっておいて、自分は気持ちいい気分を盛り上げればいいし、難しそうならば、そのイライラしている人とは距離を置けばいいわけです。

 

巻き添えをくらって、一緒にイライラする必要はありません!

 

何億人もこの世には人間がいるのです。

この人の言うとおり生きなくてはだめだなんてことはありません。

 

この世にはいろいろな場所といろいろな人間がいます。

 

あなたが望む、理想的な生活を過ごしてください。

年々理想的な生活ができるように、行動してください。

 

自分を大切に出来ない人は、決して、周りの人のことを大切にできないものです。

 

不幸な人が、周りの人を幸せにできないのと同じことです。

 

 

母親が羨ましく、そして尊敬している件。

私の母親は、専業主婦で、年齢は71歳。

地元は千葉の大きめの農家だ。

母は子供が産まれてから専業主婦になった。

いや、私は専業主婦の地位にいる母が羨ましいわけではない。

 

私は母のことを考えると、とても幸せな、気持ちになる。

そしてなぜか涙がでそうになる。

 

別に病気をしているわけでもなく、風邪をひかないくらいの健康体だ。まだまだ元気で、のんびり父親と一緒に暮らしていれる。

 

私は小学校の5年生くらいの時、なんていい親の元に生まれてきたんだと思ったものだ。

悪いことなんて出来ないと。

 

もし私がまだ産まれる前に、両親を選べていたら、いい親を選んだと思うし、もしまた生まれ変わっても、両親の元に産まれたいと思う。

 

え?そんなに素晴らしい親なのか?と聞かれれば、一般的には普通だと思う。私にとってはだれよりも素晴らしい親だけど。

 

両親は二人とも明るく、あっけらかんとし、自分たちのテリトリーの中で、自分たちがしたいように過ごしている。

父親は真面目で、老後の健康を細かく管理し、1日1万歩以上歩く人だ。自分独自の健康法を編み出し、日々日課としてこなす。

母親は趣味と専業主婦の仕事をこなし、とくに何も問題なく暮らしている。

 

なぜ父ではなく、母なのかは、みなさんがお察しのとおり、存在感の違いなのだ。

 

あの母の自由な感じ、ゆとりがある感じ、小さな喜びに満足し、ちょっとしたことはスルーする、悩まない精神。

面倒くさいことなどは、手を付けない。

自分の程よい気持ちよさをちゃんと備えて、不平不満をいうことなく、生きている母。

 

私は逆だ。

いつも何か刺激がないと生きて行けず、問題に巻き込まれ、面倒くさいことも興味があると手を付けてしまう。

よく、問題が起きると、母に電話し未だに大きく泣く。

夫婦の離婚問題が起きた時はなぜか父がかなりの確率で私を迎えに来てくれた(が、実際は話が丸く収まり、父は一人で帰ること何回か、、。)

 

どうしても、強がって生きてしまう時、両親はとてつもなくサポートをしてくれる。

いつでも話を長々と聞いてくれる。

そして私が冷静になれるように、的確なサポートをしてくれる。

 

自由に自分が思う通り、生きさせてくれた両親には本当に感謝しかない。

 

不思議と私は両親と会うのは年に2回くらいなのだ。昔から。

これは不思議なことだけど、物理的に会いたいとかよりも、存在感的に私をいつもサポートしてくれて、また私からの連絡の半分は大変なことが起こっている場合があるので、連絡ない時は順調に行っている時ともいえる。

 

私は両親に言わないこともある。

それは自分が入院したり病気をしたりする時だ。

そういうものは、自然治癒能力に任せたり、医者に任せるしかないし、余計な心配は無用なのだ。

 

今日は子宮頸がんの円錐切除後の治療と検査を聞きに行く日。

 

何かあってもどうしようもなく、それを両親にいうことはないだろう。

 

両親が亡くなるより早く死ぬことはしないと決めている。

それはとても親不孝なことだから。

 

弟もかなりのいいやつである。

弟の子供二人を毎週両親にあわせることができる彼はたいしたものだ。

そして本当にいいやつなのである。

 

もうこの家族に生まれてきた時点で、私は相当おめでたく、人生楽勝に生きられるはずなのだ。

 

なぜか、いつも思い悩み、小さなことで、夫とプチ喧嘩を度々し、私は疲れているのか仕事終わりに不機嫌になっていたり、私という人間は、人生楽勝に生きられる幸運の運命に生まれ落ちたわりには、まだまだ活かせてないと思う。

 

時々、母親のことを思い出したりすると、幸せな気持ちになって、サポートされる。

 

もう少し、もう少し、私は自分の運命に感謝し、幸せをもっと味わうべきである。

 

 

 

今いるものを愛せよ。

愛犬が亡くなってから約1ヶ月。

悲しみの絶望からじょじょに緩和され、今日の瞑想の言葉はこれだった。

「今いるものを愛せよ。」

亡くなった犬をこれだけ愛してたことを、亡くなった後で知り、いつも愛犬のことを考えた。

 

でも、今自分のまわりにいる人たちも、今いるから、当たり前のように安心しているのだ。

明日、今まわりにいる人達がいなくなる可能性だってある。

 

困ったときに素直に話せる両親への電話。

たいしたことじゃないのに、逐一報告のLINEをする友達。

年に何回か会う不妊治療や犬の話で共通の話題になる学校で知りあった友達。

いつも顔を合わせる旦那さん。

会社にいくとそれぞれのいろんな話題のある人々。

年に少ししか話さないけど、フェイスブックでは近居を知りうる弟。その子供たち。

海外にいる前仕事場が同じだった人々。

同窓会で顔を合わせた同級生。

親戚の人々。

 

少し思い出すだけでも、たくさんの人々に関わって生きている。

そしてその人たちと明日同じように会話ができるとは限らない。

突然の訃報をきくことになるかもしれない。

何かで音信不通になるかもしれない。

 

そういえばLINEの連絡先しかしらない友達で一人音信不通になってしまった人がいた。

SNSだけの連絡先って便利だけど困ることもある。

 

悲しみもいいけれど、今いる人たちにもっと目を向けて、もっと関わって、愛する時間を増やしたい。

円錐切除後に出血がない?追加文章

円錐切除とは子宮口の回りに出来たウイルス感染した場所を切り取る手術だと聞いた。

 

私はてっきり、くり抜かれるように切り取られるのかと思いきや、実際は5mmくらいの厚さを丸く切ったものだった。

 

もちろん深さは先生のお見立てで決められるもので、私が5mmカットでお願いしますとは言えないものだから、手術が終った後にその「ブツ」をみて、少し安心したものだ。

 

思ってたよりは薄めの肉片だったから。

 

でも切り取られたのだから、出血は必ずあるはずの割には、詰め込まれたガーゼをとったとき、それほど出血は見られなかった。

 

また、そのあともナプキンでどれだけ出血するのか気になったものの、なんと、血は見られなかった。

 

しかし、血はなかったものの、水分状のものがたまに出てきてナプキンを濡らした。

 

でもそれは赤くない。

 

もしかしたら電気メスとかは優秀な機械で、出血さえ上手にカバーするものなのかもしれない。

 

とにかく、はじめ想像していた、生理のような出血が何日か続くはず、という想像とは違うものとなった。

 

ちなみに痛みは手術後から特になし。

 

円錐切除は思ってたより、怖くも、痛くもなかった。

 

子宮頸がんの検査、もし検査にひっかかってしまったとき、結果がわかるまで、精神的にとても悪い。

 

もし、、はいつまでもついてくる。

 

だけど、検査はきちんと定期的に、そして恐れず、早めに、最後に考えすぎないように。

 

 

 

追加文章。

このあとの話ですが、3日前くらいから大量のおりもの的なものに血が混ざるようになりました。

下の文の、おりものに該当するのが私の症状の様です。たぶん5mmくらいしか切除してないので、太い血管までは到達しなかったのかも?

 

他の病院の「術後」について書いてあったので、たぶんかさぶたなどの形成によるものなのか、それらしきことが書いてあったので、文章を貼り付けておきます。

それにしてもこんな内容はクリニックからいわれなかったので、、。大量に出血が何日も続くとしか、、。

うーん先生とは言葉足らずなのかしらね。 

流産の危険性とかはきいていますが。ここまでの細かい内容はきいてないかな。

【合併症】
レーザー蒸散術、子宮頸部円錐切除術ともに同じような合併症があります
一般的に、レーザー蒸散術のほうが、円錐切除術 より合併症の頻度は少なく、
程度は軽いです
1.出血
電気メスを用いて慎重に切開しますが、時に太い血管から出血し、止まりにくい
ことがあります
その際には、糸で縫合するといった処置が必要となります
手術終了時には切除部に「かさぶた」が形成されて止血している状態となって
います
この「かさぶた」がはがれる術後7~14日頃に出血が多くみられることが
あります
2.おりもの
切除部位が治癒するまでは、出血にいたらなくても、茶褐色~淡紅色のおりもの
が持続することが多いです
切除部位治癒後は、通常のおりものとなります
3.下腹部痛、腹部違和感
手術当日から数日間、軽い下腹部痛やおなかの違和感を感じることがあります
4.頸管狭窄、頸管閉鎖
切除部位が治癒する過程で、頸管が狭くなる頸管狭窄を起こすことがあります
そうなると、今まで月経痛がなかった人も月経痛を感じるようになる場合が
あります
まれに頸管が完全に閉じてしまう頸管閉鎖を起こすと、再開通術が必要となる
場合もあります
5.切迫早産、早産
円錐切除部位が治癒した後の子宮頸部の長さは、手術前より短くなっています
そのことが、切迫早産や早産の危険性を高める可能性があります
場合によっては、妊娠早期に早産予防の手術が必要となる場合があります

 

いちを補足までに。

円錐切除17,660円。

今日朝9:35分、診療が始まる前に日帰りの子宮頸がん高度異形成の為の円錐切除を行った。

 

愛犬が6月亡くなった為、自分の手術の心配は忘れていた。

 

とにかく時間までにバスで遅れないようにいかなくちゃくらいしか考えてなかった。

 

手術自体は5分で終わるといわれていたし、部分麻酔も歯科治療の麻酔と同じくらいといわれていたので、それほど心配してなかった。

 

すぐに呼ばれて、なにか質問はないかときかれた。

 

頭のすみにあったのは流産のリスク。

 

いままで自然流産を2回辛く経験している。

今回の流産リスクとはもう少し赤ちゃんが大きくなってからの話だからもっと怖い。

 

というものの、確率の問題だといわれればどうにもできない。

そして私はほっといて子宮頸がんになること、またいつなるかわからないことのほうが恐れていたので、手術をお願いした。

 

あのオマタが広がるイスに座り、消毒、部分麻酔までスムーズに行われた。

 

先生と看護師さんが、大丈夫?気分悪くない?という心配の声のほうが気になるくらい、部分麻酔のせいか?少し眠くなっていたこともあり、痛さとかはなかった。

もちろん器具をグイグイ入れられているし、電気メス?のようなものの機械の音は気になるが、はっきりいうと歯科治療のほうがしんどいと思う。

 

そして、先生から切り取りが終わったことを言われて、ガーゼを詰められ、すぐに着替えて、ちゃんと止血できてるか、待合室で1時間ほど待つことになった。

 

ナプキンはつけたものの、後で見たら血はついていなかった。

また夜に、ガーゼを自分でとったけれど、たいした量の出血ではなかった。

 

もしかしたら、電気メス?は止血も含めてよくできた機械なのかもしれない。

 

止血のための薬、抗生物質ロキソニンを出されて帰宅。

 

いままでとくに何も問題はない。

 

10日後に状態を見るのと、切り取った細胞診の結果を聞くことになる。

 

なんともないことを願う。

 

ちなみに治療後、実際に切り取ったものを見せてもらった。

以外に小さい。

 

約5mmくらいしか切ってないから、流産リスクは低いと思うと言われた。

これが約15mmだったら話は別だけど、、と。

 

案外あっさり終った円錐切除の手術は薬合わせて2

万円もいかないものだったのでよかった。

 

健康保険って本当に素晴らしい。

 

犬の緊急入院なんて1泊5万円だからね!!

MRIなんて25万円くらいするのよ。

 

また犬の保険に入っていればよかったけれど、人間みたいにどこまで保険適応されるかも微妙なところだしね。

 

とにかく無事に手術が終わってよかった。

食べることは良い事。

どんな悲しみ、恐れ、不安があっても、何か一口食べて、他も食べたいと思って、食べてたら、お腹いっぱいになったなら、その悲しみ、恐れ、不安は大丈夫だということ。

 

食べるということは、次のエネルギーを補給しようという欲求が脳から自然とでて、蓄えようとしているわけだから。

 

本当に悩み、苦しみ、もうどうにもならなくなり、絶望しかなく、食べることなんてまったく考えも及ばない、無理だというのなら、食べないし、どんどんやせ細って、干からびて死ぬだろう。

 

だけど、どんなに悲しみ、辛さ、不安があっても、今、何かしら、口に出来ているならば、大丈夫ということなのだ。

 

暴飲暴食できるなら、それもエネルギーを一生懸命蓄えようとしてるのだから、未来は明るい。

 

食べられるということは、生き物にとって、「生を意味する」。

 

動物には、自分の死が近いとき、本当に苦しい時は、まずもって、食べられなくなる。

 

もうエネルギーを蓄える力さえ、なくなるということが、食べることを身体が拒否するときなのだ。

 

だから、お腹いっぱい、食べれた時は、もうほとんど、回復状況にあると見ていい。

 

あとは、いつまでも座り込んでいないで、立ち上がって、走り出すだけだ。

 

もしくは海底からいつまでも沈んでないで、そろそろ太陽の光を目指して上がるべき時なのだ。

 

おめでとう。

悲しみ時に唱える言葉。

愛犬ラヴがなくなって、10日目、まだいなくなったことを忘れてしまうこともある。

まだまだ家にいるかのようだ。

 

今日は会社の人のわんちゃんが遊びにきたので、抱っこしたり撫でたりしたけれど、犬の可愛さはあっても、愛犬ラヴを感じることは難しかった。

 

帰り道、また悲しみがやってきた。

あの時、ラヴに近寄らなければ、転ばず、死ぬこともなかったのではないか。

今でもケージの中にいてくれたのではないか、、。

 

でも死んで遺骨になったラヴがそんなことを考えても戻ってこないことはわかっている。

 

空を見上げると、ああ、生きてるものはいつか死ぬのだと当たり前のことを思う。

 

いずれ私も死ぬのだから。

 

魂が抜けたラヴの身体を抱っこしている時の空虚感は半端なかった。

もうこの暖かいかわいい顔した犬はもう、目を覚まさないことがわかっていたから。

 

家につくと、位牌の前で手を合わせた。

南無阿弥陀仏、、、。

唱えると、またあの言葉がやってきた。

 

「ラヴのすべてに感謝」

 

ラヴからもらった、今の悲しみもすべて感謝。

それだけ大切だったこと、癒やされていたことがよくわかったから。

当たり前のようにいつもいた犬が目の前からいなくなった時、初めてもう会えないことへの絶望感がやってくる。

 

そこまでしないと、ちゃんとわかってないのだ。

目の前に生きて、一緒にいる奇跡を。

 

初めてラヴが赤ちゃんのとき、手のひらに抱っこした可愛さ、癒やされた。

初めて、ラヴがこの世を去るとき、腕の中にいたラヴが切なくて切なくて、、。

 

でも、こんな気持ちにさせてくれた、ラヴのすべてに感謝することで、

ただ失った悲しみだけではなくて、もっと大きい大切なことに気づき、安心する気がする。

 

いずれ自分が死んだらあの世でラヴとまた会えるだろう。

できるなら、もう一度生まれ変わったラヴと会いたいけれど。

 

 

最強の思考法。

人生は山あり谷あり。
この世に山だけの人がいるならば、その人はすぐこの世からおさらばして死んでいます。

山があって、谷があって、上がったり下がったりするから人生の寿命を全うします。

もしフルパワーで生き続けたら、人間の身体ではそう長く持ちません。

なので頑張りすぎる人は早く成すことを成してバタッと倒れて死ぬことが多い。
だいたい60年持つか、どうか。

人間の身体では、時々谷があって、休まざる負えなくなる。
でもそれは、その人間にとって、マイナスな出来事だったり、悲しんだり、不幸な出来事だったりするわけです。

だから、谷の時間なんていらないと思うかもしれません。

なんで、幸せ、プラス、成功だけじゃだめなのか?
それはすぐにこの世とおさらばすることになるし、経験値が詰めません。

なんのために現世に生きてるのでしょう?

それは悲しみ、苦しみ、憎み、卑屈になり、マイナスもすべて含めて、自分の身体と頭と心で、感じ取る為です。

他人と比べるとき、あの人より自分はプラスが多いのか?比べます。
それし他人より少しでもプラスが多いと認識することで、自分は大丈夫。あの人よりはいい人生を送っていると考えたくなります。


しかし、この現世で生きている人々はすべて同じ価値があり、幸福と不幸があります。

差があるように思うのは、思いたい人間が作り出した幻想です。

あの人よりはお金がある、あの人よりはいい大学を出ている、あの人よりいい会社に務めている、あの人よりいいパートナーがいる、あの人より私のほうが見た目がいい、、。

そうやって頭の中で計算し、勝手に自分の都合のいい差を作るわけです。

みな自分だけがかわいい。
みな自分は他人と違うと思っている。
みな自分だけは、幸運であると思っている、または不幸だと思っている。

あなたの今の悲しみ、この世であなただけが感じていますか?
あなたの不幸、この世であなただけが感じていますか?
あなたの幸せ、この世であなただけが感じている幸せですか?


そう人間は変わらないのです。

みんなそれぞれの山と谷があり、感じ、経験し、そしてみんな、死んでいくのです。

何も怖がる必要はない。
明日のお金を不安がる必要もないし、明日死ぬかもしれないと不安がる必要もないし、明日不幸が訪れるかもしれないと怖がる必要もない。


最後はこの世から、何も持ち出せることなく、あの世にいくのか、生き物、人間の宿命です。

たくさん、経験しよう。たくさん悲しもう、たくさん喜ぼう。

ただそれだけ。

時間と刺激の大切さ。

ラヴ(愛犬)が突然の事故で亡くなった。
つい最近まで元気な姿が、突然いなくなってしまったことに、ぽっかりあいた空間が残っている。

いや愛犬は、始めから存在感の薄い犬だった。
たまにいることを忘れてしまうくらい、物静かで、寝てばかり、ご飯の時だけ目をキラキラさせて吠えた。

それ以外は静かだった。

だから、たまに何かに集中していると忘れてしまうのだ。

今感じている空虚感はラヴだけのものじゃないかもしれない。

それは私が昔から持っているもので、犬がただ亡くなっていなくなったせいだとは言えないのだ。

この空虚感をどう埋めたらいいのかわからない時もある。

あれだけ熱心にしていた株も動かせる資金がなければ、手出しできないし、私の年収では先が見えているし、才能はまだない。

ただ続けることは楽しみの一つなのでするのだが、何かが足りないのはわかっている。

それが犬ではないこともわかっている。

子供?子供がいないから?

いや、それだけではない気がする。

自分は、いろいろな体験をすることが好きだ。
できるなら、何かを生み出すこと、表現すること。

エネルギーが余っているのだ。

何か生きた証が欲しいのか、、。

いや過去の栄光なんて興味ない。

今日、明日ワクワクすることがあればいい。


そう、大切なのは、ただ今日、情熱を向けられること、体験するために準備し行動に移すことだ。

ただそれだけ。

ただそれだけ。

考えすぎない。

悲しみで少し疲れたのだ。

もう少ししたら、もっと活動的に動きたい。