『人生問題解決ブログ♪』自力なしで成功する「環境作り」法。by「妊娠虫40歳。」

妊娠虫(バグ)を発生させてからの記録。※誤字脱字すいません、マイク入力でリライトしてません。ニュアンスでお読みください。

涙があふれる、友達の妊娠を聞いて。

涙が止まらない。

それは疲れているから。

 

昨日の夜中腹痛に襲われた。

今日は体調が悪い中でも仕事をやりきった。

帰り、迎えはなく、独り疲れている体を引きずりながら帰った。

 

夕食はセブンイレブンの豚の角煮を2つとビーフカレーだ。

 

とにかく最悪な気分と、体調だった。

なぜこんなに疲れるのかわからないほど、突然ちょっと前までなんともなかったのに、突然体調が崩れる。

 

食事にも気をつけ、仕事も無理をせず、丁寧に生活しているつもりなのに、なぜだかわからない。

 

そんな中、友達が妊娠しました、のメール連絡が来た!

 

それもあと5ヶ月で産まれるらしい。

 

私より2つ年上の友達だ。

体外受精をずっと定期的に何年も続けていた友達の努力と忍耐に、私は同じことはできないと思っていた。

 

一度も妊娠したことがなかった彼女が、やっとのことで妊娠出産までもう少しでこぎつけようとしていた。

お腹が膨らみ始めたと書いてあった。

 

私は2度流産していた。

2度目は、心拍確認後の自然流産だった。

 

1度目よりは自然流産もなれたものだが、悲しみは深かった。

 

水子供養をしたら、すっと心は晴れたが。

 

心拍を確認した時の感動は覚えている。

自分の中で、何かが生きているのを目で見たとき、すごいと思った。

 

それなのだから、お腹が膨らみはじてた体験はもっともっとすごい感動なのだろうと思う。

 

当たり前のように妊娠する人。

努力しても、妊娠できない人。

子供を持たないことを決意した人。

 

私はどれにも当てはまらない。

旦那が子供が欲しいというから、自然に任せて妊活しているだけ。

 

私には努力がない。

本心で心から子供をほしいと願う気持ちが、どこか薄い。

それは昔からわかっていた。

だけれど、子供を持たないと決意したわけでもなく。

これからできるかわからない不安はポッカリと空いている。

 

私達夫婦に子供が出来なかった、とわかった時、私達はどうなるのだろう???

 

それが、怖い。

 

私達夫婦はうまく行っていない時が多かった。

幾度となく、夫は浮気をした。

離婚という言葉を何度口にしたか、わからない。

夫婦の愛情なんて、そんな大きなものはない。

 

ただほどよい距離感、ほどよい居心地のよさ、慣れ。

もちろんそれでいいと思っている。

 

昔は恋愛体質で、いつも追いかけて、恋い焦がれ、追いかけるだけで、相手のことを思いやるとか、なかった。

そういう大人になりきれない自分と、子供のままの夫だから、関係性が保てているのかもしれない。

 

そんな二人だから、子供を育てることなんてできるのか?不安がある。

 

もちろん、子供が成長させてくれるとか、子供は勝手に成長するとか、母親になることがどれほど素晴らしいかは想像につく。

 

けれど、現実と想像はもちろん、違うだろう。

 

人生、若い時は少ない。

 

もう年老いた私達だ。

 

夫は57歳。

私は44歳だ。

 

もちろん子供を持てる可能性はあることはわかっている。

 

友達の妊娠を聞くたびにショックを受けるのは、羨ましいとかそういうのではない。

 

彼女たちがちゃんと願って、手に入れた幸せを、少し達成できた姿を見るたびに、

 

自分は何を手にしたか?わからないというショックだ。

 

同じように時間を過ごしてきた何年間。

私達夫婦は、何を手にしただろうか?

 

何も変わっていない気もするし、変わったのか、よくわからない。

 

私が涙するのは、自分への情けなさにだ。

妊娠できていない自分ではなく、

ちゃんと、自分が、欲しい、と声を出して、それに向かって努力していないような気がしえ

 

それに対して自分が悔しくて、涙が溢れ出るのだ。

 

それは、疲れている時によくやってくること。

 

前は流産した何日後に、友達の妊娠した姿を見たり、自分より若い夫婦が、たぶん、すぐ妊娠するのどろうと思っていたら、本当に気持ちよく妊娠している姿を見て、何も変わらない私達、そしてこの先も、ないんじゃないか?という不安が押し寄せるのだ。

 

不安な時、今に集中すればいいという。

未来への起こるかわからないことに、時間を割くより、今に集中すること。

 

でも疲れている時、ただ涙がでて、ただ苦しくなる。

今は悲しみと自分の暗い世界しか見えなくなる。

 

友達には元気に出産してもらいたい。

これは絶対。

友達の、悲しみはつらすぎるから、友達の不幸を願うなんてことはない。

そんな悲しみがあった時、自分がどうしていいかわからないからだ。

 

自分の悲しみはいい。

でも友達の悲しみは辛すぎて何もできないから。

 

もし、友達にむかって、笑顔で祝福できない自分がいるとしたら、それは単なる自分の卑屈な劣等感と情けなさに対してだ。

自身のなさ、自分がちゃんと幸せであることを笑顔で表せないだけだ。

 

今、生きてること、健康なことに、仕事ができてること、犬がいること、

 

友達が持ってるものを、「持ってない自分」に焦点を合わせるから、笑顔で祝福できないのだ。

 

でもそれは、自分がすでに持ってるものを、見ていない。

 

たくさんのものをもってるはずなのに、「友達がもってるものを、持ってない自分」だけに焦点を当てているだけだ。

 

持っているもの、自分は欲しいから、持とうとしているものに、焦点をあて、集中していれば、「友達がもっていて、持っていない自分」は、一部に過ぎないことが見えるようになる。

 

悲しみや不安や不満は、よく、自分がもっていないものを持っているもの他人にフォーカスすることで、始まる。

 

あの人は私より美人、若い、有名、お金がある、才能がある、いい旦那を持っている、

 

自分がもっていないものを、持っている自分以外のとのに、わざとフォーカスをあてて、自分を卑屈にさせて、劣等感を募らせる。

 

あははは!大したことじゃない。

 

みんな死んでしまうのだから。

 

誰一人として生き残り続ける人はいない。

 

みんな最後は灰になる。

 

それは決まっているのだから、

 

それまでの時間は、悲しみよりも、劣等感や他人と比べて悩むよりも、もっと楽しいことにフォーカスして方が、人生楽しい。

 

時間は限られている。

 

どんな人間も、死んでいくのだから。

 

それまでの時間、自分を大切に、幸せにしてあげよう。

 

どんな形を選ぼうとも、そこには、いろいろ幸せが待ってるだけ。

 

どれが一番かなんてものは、自分でしかわからりえないもの。

 

そう、人それぞれの、幸せがあるのだから、比べること自体、おかしな話なのに、

 

わざわざ他人の持ってる幸せを、自分は持っていないことばかり、まるで、他人の幸せが自分も同じ幸せが欲しいと錯覚しているかのように、、、。

 

そんな必要はない。

 

友達は友達。

私は私。

 

みんなの幸せが、みんな人それぞれ違うから、面白いのに。

 

みんな同じものを持っていたら、この世の中は、とても、つまらないものになってるだろうに。