供養にいく。何か、人生、いろいろだな。
今日はなぜいかなかったのか、不思議な、流産時の子供の供養にいった。
1日目の流産の時、なぜあれだけお地蔵さんに子供ができますようにと拝んだのに、流産したあと、そのお寺で供養しなかったのか不思議だ。記憶が思い出せない。
このブログを振り返ればもしかしたら、わかるのかもしれないけれど。めんどうだから、いいや。
今回、なかなか気分が晴れないし、泣けてくるしで、そうだ、増上寺にいって水子供養をしてもらおうと思い旦那といった。
時間がくるまで、お願い事をするお地蔵さんを見に行った。このお地蔵さんには昔自分で編んだ赤い帽子と前掛けをかけている。
けれど、その赤さは月日でずいぶん日に焼けていて、帽子には苔がすこし、生えはじめていた。
なでなでとなでる。かわいい顔。
時間になって、小部屋でお坊さんと阿弥陀如来像と、水子と大きくかかれたものを前に、お教を聴く。
ふと、涙がこみあげてくるものの、ぐっと抑える。
赤ちゃんが私のまわりから一時離れて、お空に帰ってゆっくりできるように。また、出会う日まで。
お互いがんばろうと思った。
供養してもらって良かった。
とくに仏教徒ではないけれど、気分はずいぶんと軽くなった。
お教効果なのか、わからないけれど。
そして帰りの車の中でとても眠くなった。
気が張ってたのかな。
いろいろなことを毎日耳にする。
誰かが妊娠し、誰かが結婚し、誰かが不倫をし、誰かが死亡する。
芸能人でも、周りの人でも、いろいろなことを耳にする。
ざわざわ。
ざわざわ。
ざわざわする。
ふと、携帯で2016年ミス・ユニバースの女性の写真の美しさに思考を奪われる。こんな人になりたい。なれないけど。でも心が持っていかれる。美しいってなんて楽しいことなのだろう。
ちょっとしたことで、悲しみや流産を忘れる。
悲しいのとか苦しいのとか、日常のささいなことでふと忘れる。
頑張ろうとした時、ふと思い出し悲しむ。
繰り返していくうちに、だんだん忘れていく。
忘れてしまう。
辛いことってそう、長く続かない。
忘れてしまうから。
だから今回いなくなってしまった子供のことも忘れてしまうから、今、そのことで悲しんでいたとしても、それを大切にしようとも思った。
今しか想えないから。
もう少し、もう少しだけ、まだ悲しいけれど、それも私にとってきっと大切な、ことなのだ。