殺人のニュースや悲しい人の死を見て思うこと。
毎日誰が死んでいる。
それは身近なことでない限り、意識しないこと。
有名な人がなくなると、話したことがない人でもその死の状況を知ることになる。
それはなんともヘンな感覚だ。
気分が良いものではない。
それは、死がとつぜん、どんな人にも、とつぜんやってくることを、知ることになるからだ。
だれだって、前だけを向いて歩きたい。
この歩いている道の先は輝かしい人生があるんだと思い続けたい。
しかし、ニュースはそれを許してはくれない。
人の悪意、人の不幸、人の悲しみ、人の裏切りを伝えてくる。
それがもし、自分に降りかかったことならまだしも、話したこともない有名人だからという理由で、とつぜん、その人の個人情報が垂れ流される。
それはへんな感覚なのだ。
そして個人情報を聞いたとしても、その個人とかかわり合いなることは皆無だ。
目の前の自分の歩みが止まりそうになって、実を言うと好きじゃない。
テレビは見ないが、snsは見るので余計シャープに情報が入ってくる。
ただ、こういうニュースがあったとき、そこまで感想は変らない。
不幸な人は、幸福そうに見える人を羨み、今でいう、『無敵の人(失うものがない人)』は他人をとつぜん傷つける可能性が高いということだ。
そして、人間、死んだら終わりだ。
その人にとって、この世ではもう生きることは出来ない。
どんなに周りの人が願っても、どんなに周りの人が記憶に残そうとしても、本人は死んだら終わりなのだ。誰でも。
だからこそ、そういうニュースを見たとき、ショックを受けたら、その分、前をさらに強く見て、自分の生を生きようと思う。
自分もとつぜん、死ぬ可能性があるのだ。
今日、出勤途中で、人生、終わるかもしれない。
だからこそ、今を生きるべきだ。
今日を心置きなく、楽しんで!
今日生きててよかったと、思えるように。