愛犬が亡くなって気づいたこと2
朝枕元においてある、愛犬ラヴの写真におはようをいった。
ラヴが亡くなった瞬間を思い出し、どうにもならない空虚感、後悔はまだある。
ラヴが今まで一緒にいてくれてありがとう。と何回かいっていたら、
あ、そうだ、ラヴは昔いろんな犬が近づいてきて、くんくんされてたなー。
人気者だったなーと。
あそこは、ああそうだ、増上寺の近くの公園だ。
と思い出した。
ああ、増上寺には自分が流産した時供養してもらったり、したなーと。
そういえばあそこにはラヴともたまに散歩にいったなーと。
それで今日気づいた。
ああ、そっか。
お空にいる、亡くなった子供、供養してもらってすっかり安心しておもいださなくなったり悲しんだりなくなったけれど、もしかしたら愛犬ラヴはお空でそのこの子供と出会うかもしれないな、と。
そしてラヴは出会った子供に、そろそろ下にいっても大丈夫と伝えるのかもしれない。
二人はすこしばかり愛犬ラヴが亡くなったせいで、前より子供を育てる準備ができていると。
愛犬ラヴが亡くなってしまって、悲しみのなか二人は助け合った。
共犯者の気持ちになった。
二人で育てたラヴだから、それを失うことになったのも自分たちのせいだと。
そして次は後悔のないようにしようと。。。
失うことによって、どれだけ大切だったかを知ったのだ。
でも命は、亡くなってしまったらどんなに後悔しても悔やんでも、昔のことを考えても、亡くなったことに変わりはないのだ。
私はお空で行われる出会いの瞬間を思い描いた。
それはなんて素敵で心強い光景だろう。
約1年前にお空にいった子供。
あの時、始めて自分のお腹の中で、チカチカと白い光が動いてるのを見たときの感動。
それを見せてくれた子供。
でもお空にあっという間に行ってしまった。
でも1年も立って極楽浄土でゆっくりやすんだり遊んだり、それから私達を見ていたのかもしれない。
まだラヴが旅立って、5日目だ。
49日立った頃、ラヴがお空にいった時にきっと、ラヴが子供を見つけるのか、それとも、子供がラヴを抱っこするのか待ってるのかわからないけれど。
その光景は微笑ましく、可愛らしく、素敵なものだろうと思った。
今日思い出して、気づけてよかった。