どんな自分になりたいか?他人は関係ないし、常識もなし!
何に不満があるかといえば、なりたい自分になっていない自分に不満があるのだ。
というよりも、それを自分の中で、「なんて馬鹿なことを考えてるの?」と自分を否定しているのだ。
自分のなりたい自分は、馬鹿な自分のことが多い。
やってはいけないといわれていること。
他人の目を気にしてやってはいけないこと。
案外これが、自分のなりたい自分だったりす。
例えば、私は、電車で、踊りたい。
声を上げたい。
リズムをきざんで、歌いたい。
だけど、そんなことをしたら、「うるさい」と言われ、「おかしな人」と思われる。
でも私の人生の時間で、やっていけないことなんてあるだろうか?
「公共の場所」という言葉は厄介である。
要は、「私有地」以外では、他人の目や意見をきかなくては、いけないのだ。
特に日本は他人の目、監視をしあって生きている。
あの服はだめ、目立つのはだめ、声は小さく、意見は最小限に、
社会主義国家のように、決まりを守り、ロボットのように、同じように歩いていく。
乱れてはいけない国である。
それはある意味心地よい。
突然大声を出す人はいないし、横入りする人もいない。
目には優しい、差し障りのない色の洋服を来て、
刺激を他人に与えないように生きている。
ある意味、自分を制して生きている。
感情的にならず、決まりを守る。
しかし、それと、「なりたい自分」を放棄することは別の話だ。
大声を公共の場所で出さなくても、今は、「公共の中間地点」がたくさんある。
SNS、You Tube、だけでも、大声を張り上げた自分を表現できる。
美しい歌を作って歌えばいい。
「文化」という言葉は「公共を超える」。
大声を、芸術に変えると、突然、価値が生まれ、お金を出しても欲しいといわれるようになる。
なりたい自分はいくらでもあるはずだ。
他人の目を気にしなければ、常識の枠を外せば。
なりたい自分であって、なれる自分ではない。
世界一のお金持ちになれるのは難しいけれど、世界一のお金持ちになりたいと、考えるのは自由だ。
ちなみに私は「投資家」になりたい。
それから「ダンサー」にもなりたいし。
「音楽家」にもなりたい。
「画家」にもなりたいし。
「料理研究家」「美容研究家」「プログラマー」「お店も作ってみたい」「誰もが知ってる大企業でも働いてみたい」「社交界デビューしてみたい」「大きな木を植えてみたい」
きりがないくらい、なりたい自分がいるからがんばろう!